昭和50年12月29日 久富家改式祭におけるごあいさつ
おかげで、改式祭をつかえさせて頂きました。御霊様のご安心の本当の意味で開けれる、式が終わったわけです。んー、という例えば、御霊様が安心してくださる、喜んでくださるようなお祭りかをしたから、おかげを受けたっていうのではなくて、そういうその、心がおかげを呼ぶんです。あの( )私今日は、お風呂に入らせて、昨日お風呂に入ってから、まだおくりなが頂いてなかったから、あの(思うともなしにおくりなのことを)思わせてもらいよったら、久富の、「く」は久留米の久、「に」は、任編に仁、仁という字、それから「か」は、きゅうかの時の華、久富久仁華、姫は、ヒレイの比、めは女、という「ひさとみくにかひめの霊神」というあの贈名を頂いたわけです。それはおくりなかから言うと、んー、お徳、お徳を受けた御霊ということだと思うね。お徳を受けた、お徳を受ける、久しく、仁というのは、人徳の仁です、徳の。御霊ながらのお徳、しかも、その華というのはね、まあ素晴らしいと思いますね。何何の華、生華という、御霊の華という意味ですね。そういう、まあいうならば、位にのぼられたという感じですね。いかに御霊さまがお徳を受けられて、喜びの御霊としてこれからおかげを頂いていかれるというても、やはり遺族の者が助からなければ、御霊の喜びにはならない。ね、それで私はあの思うのですが、例えばあの、四神様が十年間、教祖様の後をお受けになられて、御用をなさった。そして40歳という若さでお国替えになられた。それこそ、生神、二代生神様と仰がれるほどしの方が、十年間の御神勤であり、御年はわすが40歳という、お年でお国替えになられた時、亡くなられた時に、四神様が残しておられるお言葉の中に、信心の家、信心を頂いておっても、ね、早死にをしたと世間の人から言われるのが、口惜しいうけれども、後を見ておってくれと言われた。後々をわ見ておってくれと。まだ攝胤、いわゆる三代金光様、まだ年は十三歳という、お子さんですけれども、攝胤様に後のことを、まあ譲り渡されて、お国替えになられた。そして、後を見ておってくれと言われた、あー言われたとおりに、三代金光様があのような、素晴らしい御神徳に輝いた、ご一生を終わられた、そして、たとえばなるほど、笑うた人があるかもしれん、不足を言うた人がおるかもしれんけれども、四神様がおっしゃっておられたように、後が素晴らしい、やはりお徳だなというおかげになって現われておる、それをまあ、私の方のことを言うてもです、私の方でも、まあいうなら一生懸命の信心させてもらって、 の信心をさせてもらって、あれほど信心が続いておるにも関わらず、ああいう難儀が続くということはどうしたことだろうかと、みんなも言ったであろう、また笑うた人もあるかもしれん。けれども、なら今日のごひれい、おかげを思うと、なるほど、神様のご深慮の深さというのは分からない。私は今日御神前でご祈念させてもらいよりましたら、あの、「 」の中にありますね、あの、那須与一が、平家の船が、漕ぎ出してきて、一本のひょうの上に、扇子を、扇をこうやって開いて、しかも官女がそばに立ってこう手招きをする、こちらの方でそれを見ておった、退治しておった源氏の侍達が、あれをその「 」というので、那須与一が選ばれて、あれを射落とすところがある。もうそれこそ敵も見方も、ね、それこそ船べりを叩いて、 。 の方も、ウマの手を叩いて褒め称えたという。いわゆる そである。その状況を頂くんですよ。ね、これからの一心で、本当に扇の的を射落とすほどしのおかげを頂いた時に、今までどうか言いよった人、笑いよった人、悪口を言いよった人もです、もうそれこそ馬の蔵を叩いて、馬ずりを叩いてね、「よかった、金光様の信心ちゃ素晴らしい」というようなことになるんじゃないかと思うんですよ。私はそういうおかげを頂くためにはです、ね、いよいよほなら、扇の的を射らんならん時に、射そこなんわんですむような一心の信心を本気でけいこさせて頂いとかなきゃならない、また、あとを見ておってくれと四神様がおっしゃった、その後の、なら者に信心がそれに続かなかったら、なら今日の金光教はなかったように、ね、私はただ改式をしたから、おかげを受けたじゃない、改式をさせてもらう、その一心が、おかげを呼ぶのである。またこれからの信心が、いよいよ御霊が送り名の中にも現われておるように、徳の華とまで言われるような、おかげ、御霊の喜び、安心の御霊としておかげを頂いていっても、後々の者が安心のおかげ、後々の者がおかげの花を咲かせないことには、本当に御霊様のお喜びにはならいと私は思うんです。これからもね、本当に一心に信心させて頂いて、それこそ扇の的を射貫かせて頂くほどしのおかげを頂きたいものですね、どうぞ。
池尻 てるか